数学における「証明」とは何か

 数学における「証明」とは何だろうか。数学者はこれに答えを出しているようだ。以下、数学基礎論とか、数理論理学とか呼ばれる世界の話。一般に認識される数学(代数学とか、幾何学とか、解析とか)とはまた違った世界。

 まず、数学を表現する「言葉」を作らねばいけない。それは話言葉とは異なるものである。それはプログラミング言語の文法を定めるのと同じ要領になる。しかしここでは話は単純化される。「文字」を決め、「文字」で構成される「単語」と「述語」を定め、それらの「接続」の仕方を定め、「文」という塊を定める。もちろん、「文」同士の「接続」の仕方も定め、それもまた「文」とするのだ。そうして、考えられる可能な限りの組み合わせの「文」を生成して行く。

 次に、「文」の集まりの中から「正しい文」を選択する規則を定める。これは、いわゆる、公理系と呼ばれる方法である。それは次のように行う。「文」の中から誰もが正しいと同意できる「正しい文」の候補を選ぶ。また別に、「正しい文」の集まりからまったく別の「正しい文」を結び付ける規則を定める。そうして、考えられる可能な限りの組み合わせの「正しい文」を生成して行く。「文」の集まりの中に「正しい文」の集まりができていくイメージが湧くだろうか。

 この一個一個の「文」が数学の命題と呼ばれるものになり、「正しい文」が数学の定理と呼ばれるものになる。「証明」とは、数学の命題である「文」が、数学の定理である「正しい文」の集まりに所属することを示すことである。

 さらに、上記の「接続」の仕方の中には、「正しい文」に対し「正しくない文」を定める規則があるとする。

 無矛盾性とは、「正しい文」の集まりと「正しくない文」の集まりが重ならないこと、完全性とは、「正しい文」の集まりと「正しくない文」の集まりを合わせると「文」の集まりと一致すること、をいう。

 以下では、無矛盾性は満たされているとする。無矛盾性が破れていると、「正しい文」の集まりは「文」の集まりと等しくなってしまう性質がある。これだと、完全性が満たされることになってしまい、以下を語る意味がないからだ。

 ゲーデル不完全性定理とは、数学の命題である「文」で、「正しい文」の集まりにも「正しくない文」の集まりにも所属しないものが存在する、というもの。こうして、無矛盾性の下で、完全性が否定される。

 「文」を生成するのと、「正しい文」を生成する2つの規則があるのが分かるだろうか。これらの規則をどんなにいじっても、無矛盾性の下では完全性は達成できないと、ゲーデル不完全性定理は主張している(と思う)。枠からはみ出る「文」がどうしても出るのだ。

 ただし、ある特定の「文」を「正しい文」の枠に詰め込めるように規則を拡張することなら可能だ。これが、ヒルベルトが主張する有限の立場だ。最初からすべて枠に収める必要はない。必要に応じて、必要な分の大きさで、ことを進めればいいのだ。

 ちなみに。ゲーデル不完全性定理の証明の方法は、カントールが可算無限と実無限の濃度が異なることを示すのに使った対角線論法を応用している。自然数と実数の関係性が影を落としているのだ。何か深いものが潜んでるようで、ゾクゾクしないか。

 枠を拡げる前と後で何か変わるだろうか。可算無限を目いっぱい膨らませた代数的数という一団がある。これらは代数的閉体と呼ばれる性質を持つ。ちょうどこれに対応するような拡大された公理系の枠組みはないだろうか。あれば、何か面白い性質を示したりしないだろうか。

 さて、妄想はこれまでにしよう。

 以上は、素人数学愛好者のただのたわごとです。暖かい目で見守って下さい。

 では。